夜の声
以前から、よく散歩をしていましたが、出かけられる
場所が 減ってからは、その機会が増えました。
密集を避け、早足で歩きます。
快適な季節なので、夜の散歩も、気分転換にはぴったり
です。
闇(やみ)のなかでは、視覚が弱まる分、聴覚が敏感に
なるせいか、気配(けはい)がじかに伝わってきます。
すれちがいざま、耳に飛び込んでくるフレーズが、尾を
引くようです。
その声が、ふしぎに軽やかで、はなやいで、いつもより
も楽しそうに感じられるのはなぜか?
あたりまえと思い込んでいた「自由」を、限定的である
からこそ、もっと貴重だ、と味わっているのかもしれ
ません。
マスク姿もなんのその!
海へと続く大通りの街路樹(がいろじゅ)が、鮮やかな
ブルーにライトアップされていました。
コロナウィルス医療従事者へ、感謝とエールを示す動きで、
世界中に広がっているそうです。
2020.5.17
映画『羊と鋼(はがね)の森』
雨の週末となりました…
新学期が始まったばかりの皆さんは、緊張感のなか
に日々を過ごしているかもしれませんが、一息つき
ながら、課題に取り組んでほしいと思います。
最近、音声に関するお話をしました。
その流れから、今日は、映画『羊と鋼の森』(2016)を
紹介します。※
原作は、宮下奈都(みやしたなつ)の小説で、
全国の書店員が「いちばん売りたい本」として選出する
「本屋大賞」を受賞しました。
学業を終えたら、向き合わねばならない自分自身の職業
は、早くにみつかり、適応していくひともいますが、
一方で、迷ったり、挫折 (ざせつ)したりしながら、
そこにたどり着くひともいます。
この映画の主人公は、後者のタイプといえるでしょう。
世界がめまぐるしく転変(てんぺん)する今日、私たちは、
その時々の主流を占める価値観に、影響を受けがちです。
それはそれで、個人の自由ではあります。
しかし、ひとつの仕事に対する愛情と覚悟があるなら、
ピアノの調律師(ちょうりつし)のような「職人」――芸術
への理解が深い――としての人生を歩(あゆ)むのも幸いな
ことではないかと、映画をみて思わされました。
でみることが できます。
日本語の音声:拍(はく)
昨日に続いて、日本語の音声の基本的な法則について
お話しします。
日本語の音声の拍は、「等拍(とうはく)」です。
つまり、1音、1音が、同じ長さで発音されます。
これは、日本語を正しく、かつ、きれいに発音するのに
重要な点です。
しかし、こちらは、高低アクセントよりもシンプルなの
で、理論的には把握しやすいでしょう。
以下に表した日本語の基本的な音は、すべて「1拍」で、
同じ長さになります。
(1)「あ・い・う・え・お」、「ア・イ・ウ・エ・オ」
のような母音(ぼいん)
(2)「か・き・く・け・こ」、「カ・キ・ク・ケ・コ」
のような子音と(しいん)母音が組み合わさった音
(3)「きゃ・きゅ・きょ」、「キャ・キュ・キョ」
のような大文字と小文字で組み合わされる
拗音(ようおん)
(4)「う」、「―」のような、前の音を受けて伸ばす
長音(ちょうおん)
(5)「っ」、「ッ」のような、前の音の後に小文字で
書かれる
促音(そくおん)
(6)「ん」、「ン」のような、はねる音である
撥音(はつおん)
(1)、(2)が、1拍なのは、自然だと感じられるでしょう。
しかし、2文字からなる(3)や、それだけでは単語として
成立しない(4)、(5)、(6)も、すべて1拍なのです。
例)専門学校(せんもんがっこう)6拍
教科書問題(きょうかしょもんだい)8拍
インターネットバンキング 12拍
外国人学習者の音声には、(4)、(5)、(6)の「1拍」
の長さが足りていない(短い)ことが、よくあります。
1拍分が、完全に抜けていたり、「半拍」になっていたり
すると、音が「詰まって」聞こえるので、注意をしましょう。
☆彡 拍のポイント
・「学校(がっこう)」のように、長音が最後にくるときは、
gakko ではなく、gakkō(がっこお)と、最後まで1拍分を
意識して発音する。
ならない。
・「新幹線(しんかんせん)」のような名詞では、間の「ん」
と最後の「ん」の長さを、しっかり意識する。
日本語の音声:高さ
先日書いたように、母語の干渉や個々人の癖等がある
ため、 音声の指導には、すべての学習者に対応できる
たった一つの方法 がありません。
それゆえ、プライベートレッスンのような形態は、
適しているといえますが、個人でも、日本語の音声の
基本的な法則をおさえる ことで、ある程度の自律学習
が可能です。
ブログという形式上、大量の文字数を費やすことはでき
ないため、あえて2点に絞ってお話ししたいと思います。
そのうちの1点は、高低アクセントに関するものです。
※ただし、標準語を基準にお話しします。
[1]高低アクセントの最も基本的な法則は、ことばの
最初の1音目と2音目の高さが,、必ず異なることです。
つまり、下→上、もしくは上→下、となります。
無アクセントのような、上→上、下→下、はありません。
[2]そして、高低アクセントと呼ばれるものには、
四つの型があります。
1.平板型(へいばんがた) 下から上にあがる。
2.頭高型(あたまだかがた) 上から下にさがる。
3.中高型(なかだかがた) 下から上にあがり、
またさがる。
4.尾高型(おだかがた) 下から上にあがるが、
助詞がついたときには、
さがる。
四つの型を練習するときには、活用のない「名詞」から
おこなうのが、わかりやすいです。
たとえば、4拍の名詞においては、7割以上が平板型と
いわれています。
例)大学、空想、運動、薄味、人工…
→助詞「が」をつけても、上がったまま。
また、若者ことばの影響等で、頭高型の名詞が、平板型に
変化した例は少なくありません。
例)ゼミ、ドラマ、バイク
※ただし、アナウンサーは、以前のアクセントで発音して
います。
1の平板型と2の頭高型は、比較的わかりやすいですが、
3の中高型は、どこで下がるかがポイントです。
下がるところを、滝が落ちるのに見立てて「アクセントの
滝(たき)」と呼びます。
例)歯科医 し(下)・か(上)・い(下)
湖 み(下)・ず(上)・う(上)・み(下)
また、4の尾高型は、名詞のままでは、平板型と同じです
が、助詞がついたときには、助詞の前に、アクセントの滝が
あります。
例)妹が い(下)・も(上)・う(上)・と(上)・が(下)
心が こ(下)・こ(上)・ろ(上)・が(下)
名詞レベル、短い語では、アクセントをおさえやすいですが、
文単位で長くなるにつれ、難易度が上がります。
☆彡「高低アクセント」のポイント
・型をきちんとおさえる。
・「上がる」、「下がる」を、曖昧でなく、きちんと高さを意識
して発音すると、きれいに聞こえる。
音声の授業
皆さんは、日本語学校や大学で、どのくらい音声の
授業を受けたことがありますか?
もし、かなりの時間を割き、音声を教えてもらえた
のなら、その学校は誠実だといえます。
ありていにお話しすると、日本語教育のなかで、立ち
遅れているのが、「音声」の分野です。
日本語学校など、教育期間が短い場では、どうしても
授業が詰め込み式になることは避けられません。
→しかし、それで「音声」を後回しにしていいという
理由にはならないでしょう。
また、「会話」を教えるといっても、自然な速さや
ある程度のなめらかさは教えられても、「正確さ」まで
教えられていないのが現状です。
→これも教える側の意識の問題ではないか、と考えられ
ます。
プライベートレッスンでも、「会話」と称したレッスン
が、正確さの指導を欠いた「フリートーク」のように
なっているのは、遺憾です。
これまで、日本語が上級レベルまで進みながら、音声に
ついては、ほとんど教えてもらわなかったという学習者
に、何度も出会いました。
最初に、日本語の音声の「基本の法則」を教えますが、
なかにはそういうものが存在するのを知らなかった、
衝撃を受けた、という方もいました。
しかし、そこからがすばらしいのです。
皆さん勉強熱心で、それまでの遅れを取り戻さんと
ばかりに猛練習して、ぐんぐん上達していきます。
→自律学習のためのアドバイスもおこなうので。
最初は大変でも、マスターするうちに、段々おもしろく
なってくるようです。
こちらも熱気に煽られ、発奮します!
ドラマ『チャンネルはそのまま』より
就職、転職に際して
『日本語空間』は、アカデミックジャパニーズの
論述指導に 、一応特化をしていますが、これまで
の縁から、別な依頼を受けることもあります。
論文提出の締め切りが近くなると、その関係の依頼
が多くなるので、別件はお断りすることもありますが、
現在は、比較的余裕があるので、話し合ってから
お引き受けすることもあります。
以前、大学の卒業論文をサポートした留学生が、就職
を控え、ふたたびサポートをしてほしいと依頼して
きました。
→その後、専門学校に進み、来年卒業の運び。
主として、日本語の「音声」の矯正です。
文法や文字語彙はともかく、話し方は、学ばないまま
放置してしまったので、正しくないと感じているけれど、
一人ではどうしていいかわからない、ということでした。
接客のアルバイト中、「なまってる」といわれたことも
あるそうで、正しくというか、「きれいに話したい」と
希望しています。
いわゆる「外国人なまり」には、母語の干渉(かんしょう)
が考えられます。
ことばにすると当然に思えるかもしれませんが、自国語
感覚で話さず、慣れるまでは、日本語の音声を意識しながら、
話すことが大切です。
※今回、上述した学習者の同意を得て、この記事を書いて
います。
その方は、自国語を頭の中で翻訳しながら、日本語で
話しており、音声には関心を払ってこなかったため、意味
は通じるけれど、母語の干渉が強いのです。
就職活動において、外国人の志望者が、音声が100%完璧
ではないという理由だけで、不採用になることはまずない
でしょう。
昨年から今年のはじめにかけ、別な外国人の転職活動の
サポートで、音声指導をおこないました。
論述指導は、対面のやりとりだけでなく、原稿とじっくり
向き合います。
どちらも、趣(おもむ)きは異なれど熱い! ですね
今年のはじめに、中途採用で転職を果たした
活動を開始したのは晩秋だったので、季節感を
考慮して、ネクタイは、カーキがかった濃い
ワンちゃん?
仙厓義梵 せんがいぎぼん(1750-1837)『犬図』
以前に、外国人の学習者と話していて、相手がふしぎな ことをいう
ので、首をかしげてしまいました。
2度ほど「ワンちゃん」といったのですが、犬とは関係ない話だった
よく聞いてみると「ワンチャン」といいたかったらしいです!
1「ワンちゃん」は、犬をかわいらしく表現したもの。
2「ワンチャン」※は、若者ことば?寄りの俗語
そうです。
1のワンちゃんは「頭高型(あたまだかがた)」のアクセント
アクセント違いで、勘違いの会話に…
ちなみに、先日書いたTVドラマの『ちゃんぽん食べたか』も、
平板型で「食べたか」といえば、「食べたい」の意味、
つまり長崎の方言になります。
※「ワンチャン」は「ワンチャンス」の意味。
地元愛と方言(2)
大学院で知り合った関西出身の学生が、あるとき「東京弁
では、そういうかもしれないけれど」といいました。
東京弁?
その知人は、卒業したら地元で就職することに決めている
と、きっぱり意思表示をしていました。
彼女は、家庭のなかでは地元のことばを使いながら、外では
標準語も使えるよう、親からしつけられたとのことでした。
固有な表現が残っている土地では、ことばと地元愛が一体
のように思えます。
昨年、『翔(と)んで埼玉』という映画が話題になりました。
この映画をみた元留学生(埼玉県に居住経験あり)から、
おもしろかった! という感想を聞き、私もDVDで
『翔んで埼玉』を鑑賞しました。
まあ、関東に住んでいれば、わかりすぎるくらいわかる
ニッチなネタばかりで、おもしろくないことはないけれど、
気恥ずかしさもあるといったところ。
同時に、他の地域のひとがみたら、関東人だけの「内輪受け
(うちわうけ)」でおもしろくない、と批判されるのでは
ないか? とも考えてしまいました。
日本に限らず、「格付け(かくづけ)」ということが、
しばしばおこなわれます。
関東は、大枠(おおわく)で標準語の地域にあたっている
ので、ことばで差がつけにくい分、別なこまかい要素で、
地元や出身地を差異化したい のかもしれませんね。
地元愛と方言(1)
「地元(じもと)」といったとき、それは、自身の生活
している 場所、生活圏(せいかつけん)を指しますね。
もし、生まれた場所と、現在まで暮らしている場所が
一致するひとは、地元がどこであるかが、自明のごとく
ピッタリしたものなのでしょう。
けれども、グローバル化した時代にあり、複数の土地を
移動するひとが多いのも事実です。
私自身、今まで何度も引っ越しを経験してきました。
もともと帰属心(きぞくしん)の薄いほうですが、漠然と、
関東に生まれそこで生活してきた人間という自覚はあります。
「地元」を市や町、「出身」をそれらを含む地域や県とする
と、「地方」である関東は、より範囲が広くなるので、特別
な感じ がしないのかもしれません。
そんな私が、自分自身の話すことばをつよく意識させられる
それは、大学院に入ってから、フィールドワークと資料収集
のため、他の地方に出かけたときのことです。
その土地の人の話すことばが、自分が使ってきた日本語とは、
具体的な相違点は、「イントネーション」と「文末」です。
(よくよう)がついていたので。
違和感よりも、心地(ここち)よさがまさり、いつまでも
聞いていたい気持ちにさせられました。
反対に、私が話す日本語は、平板(へいばん)で、どこか
現在、標準語または共通語と呼ばれている日本語は、近代に
それは、意思の疎通(そつう)には合理的で、共同でひとつ
の物事をまとめたりするのには、適しています。
しかし、一方で、人工的な共有の過程において、ことばは、
蘭学(らんがく)・写真・カステラ
以前に紹介した映画『合葬』のなかで、主人公の一人・
悌二郎(ていじろう)は、「長崎帰り(ながさきがえり)」
という設定。
鎖国体制が敷かれた江戸時代にも、長崎は、公的には唯一、
外国へと開かれた窓でした。
ただし、1639年以来、そこで許された貿易の相手国は、
オランダ※1)と中国に限られることとなります。
そのような経緯から、江戸時代には「蘭学」--「蘭」は
オランダの意味――が、隆盛(りゅうせい)しました。
日本人が、歴史の授業でその名を学ぶ『蘭学事始(らんがく
ことはじめ)』という本には、オランダの医学書を日本語に
翻訳する苦心が、語られ ています。
同様に、さまざまな精密機器(せいみつきき)が、長崎を
通じ、日本へと入ってきました。
オランダの軍医から化学を学び、写真師のパイオニアとなり
ました。
さらに、食文化の面でも、長崎では外国のものを日本風に
アレンジし、定着させていいます。
なかでも名物として知られる「カステラ」は、、16世紀に
ポルトガルから伝わった菓子を、日本風にアレンジしたもの
です。
修学旅行で長崎を訪れたとき、カステラの工場を見学しま
した。
試食をさせてもらいましたが、育ち盛りの高校生は、
「うまい!」と遠慮も何もなくパクついていたと思います…
長崎には、カステラ店がたくさんあり、人気の店は、半年も
予約待ちの状況だそうです。
つまり、鎖国以前からの伝統を継承していることになります。
※1)その前に起きた「島原の乱」(1637-38)は、日本の
オランダは、プロテスタント国だったので、スペインや
ポルトガルのようには警戒されず、貿易が許された。
(仮想)旅へのいざない
地震に、雨、雷と、何だか昨日から暗いので、今日は趣向
を変えたお話をしましょう。
現在は、残念ながら旅行自体が不可能ですが、文章の終わり
に、ネット上で、旅の雰囲気だけでも味わってもらえれば
と思います。
最近、日本の近代とキリスト教について記しました。
日本の開国は、アメリカと深くかかわっていたこともあり、
近代の開港地 では「プロテスタント」を中心に、布教
(ふきょう)がおこなわれます。
それ以前、日本にキリスト教が伝えられたのは1549年。
以後、日本におけるキリスト教は、相当な勢いを増し、
大名(だいみょう)のなかにも信者を生みました。
幕府は、苛酷(かこく)な弾圧をおこない、ひそかに信仰
しているのが見つかると拷問(ごうもん)され、多くの信者
が殉教(じゅんきょう)しました。
それでは、日本のキリスト教信者は、全員が棄教(ききょう)
したのでしょうか?
実は、一部の信者は、信仰の形態を日本風に変え、秘密裏
(ひみつり)に信仰を続けたのです。
長崎にある「大浦天主堂(おおうらてんしゅどう)」は、
1597年に殉教した26人に捧げるため、開港後の1864年、
フランス人神父(しんぷ)に よって建てられました。
何と260年以上の時を経た歴史的な瞬間でした。
私は、高校がキリスト教系だったので、修学旅行で長崎を
訪れる機会を持ちました。
ゼミ選び(3)
先日、大学や大学院、専門の異なり超え、ゼミの先生
には「人間性」を重視したいと書きました。
大学以上を、高等の教育機関と捉えるとき、現実的な
事情はさておいて、導き出されるのは「専門教育」の
使命です。
つまり、ゼミを選ぶ基準として、その先生が、専門の
たとえば、自身の研究の専門、テーマに近いA先生と
その場合、選ぶべきは「研究者を育てる意思がある」ほう
の先生だといえます。
あたりまえのようでありながら、これ以上大切な要素は
私自身は、「ゼミジプシー」といってよいほど、修士課程
学際的であったり、先人が手をつけていない領域に進もう
としたりする場合には、起こりうる事象です。
短所としては、先生とでも専門的な話ができない点、
そして、ここからが大切なのですが、リファレンスを多く
的確なアドバイス――自身では内側からは気づかない――
をくださったのです。
指導経験が浅くても、意識が高く、猛勉強していらっしゃる
反対に、ベテランであり、長年(ながねん)、誠実に学生と
向き合ってこられた先生は、専門を超えて、一人一人の学生
の資質を見抜く慧眼(けいがん)をお持ちです。
今でも、研究の節目(ふしめ)節目に、思い出すのは、
ゼミ選び(2)
昨日に続き、あえて気兼ねせずに、思ったことを書きます。
以前にくらべれば、日本の大学や大学院において、留学生
へのケアやサポートは充実してきたといえます。
日本人学生、外国人学生に関係なく、ゼミの先生は、親切
であるのに越したことはありません。
しかし、留学生だからこそ、ゼミ選びにおいて特に大切なの
は、担当教員の「人間性」だと考えられます。
いくら卓越した研究能力を持っていても、指導そのものが
的確でも、最終的に頼れるのは誠実な先生でしょう。
以前に、学位論文のサポートをした留学生から直接聞いた話
で、残念だったのは、ゼミの担当教員による論文の指導放棄
でした。
レポートと異なり、最低でも2万の文字数からなる論文を、
それなりの質をもって完成させるのは、日本人でも容易では
ないのに。
大学3年以上、さらに大学院生ともなれば、留学生であって
も、勉学上の一定の自律が暗黙の裡(うち)にもとめられて
はいます。
しかし、それが建前であっても、外国人学生を日本人学生と
まったく同様に扱うのは、不人情だといわねばなりません。
→断言はできませんが、事務的な一応の取り決めも、場合に
よっては教授の一言で、融通(ゆうずう)してもらえること
があります。
いずれにしても、日本で留学生活を送る皆さんにとって、
将来の就職や進路にかかわるゼミが、意義あるものになる
ことを願ってやみません。
ゼミ選び(1)
ゼミを選ぶときには、いくつかの観点があります。
まずは、自身の専門、研究テーマが、ゼミの先生と
重なること。
特に大学院の場合、専門分野が絞られてきますから、
よい先生に巡り合えるかどうかは、研究にとっての死活
問題となります。
ただし、留意したいのは、先生との距離の取り方です。
身動きが取れなくなるのも、また考えものです。
そのような結果、テーマが似通ってしまったり、「異論」
を許容してもらえなくなったりする、といったケースも
あります。
やや唐突ですが、ここで、話しにくいことをあえて書きます。
ことばをかえれば、大学の教員として教えていても、
皆が皆、研究の方面で第一線の活躍をしているわけではあり
ません。
学校では、教える仕事の他に、多量のペーパーワークや事務
をこなさねばならず、授業の準備や後処理もあります。
その他、教員や研究者、学生とのつきあい等に費やされる
時間を除いて、研究の時間を確保するのは至難のわざです。
それでも第一線で活躍している先生は、かなり精力的で、
研究者としての意識が高いといえます。
一方、大学で、ある先生のゼミに入ることで一生が決まる、
というような話には、真実味があります。
たとえば、経済界に太いパイプを持つ先生のゼミに属し、
優秀な成績を収め、気に入られる。
そうして有名企業に推薦してもらい、定年退職までを勤め
上げる、というのも、めずらしい話ではありません。
また逆の発想で、大学を卒業したら、大学院に進むつもりは
なく「ゼミの負担を減らしたい」という学生もいますね。
このタイプのひとには、学生の個人的な事情を汲んでくれる
寛容な性格の先生が、向いているのではないかと思われます。
4月の終わりに
例年と打って変わり、混沌(こんとん)としたなか、誰も
カレンダーではゴールデンウィークの最中ですが、
コロナウィルスの感染者は、いったん減りましたが、この
引き続き、静謐(せいひつ)な室内の時間を、有効に使い
さて、仕事が閑散期のため、私は、研究の方に比重を置いて
カウンセリングをおこないました。
至急レッスンをはじめたいという希望で、早速今日からの
スタートに。
コロナ禍(か)は、社会に、深刻なダメージをもたらしました。
を、私たちに考えさせてくれたようです。
対面が当然であったレッスンも、スカイプでおこなうこと
に、今のところ問題はありません。
ただし私自身は、今まで以上に、「伝える」ということを
意識しています。
4月の終わりに、あたらしい風が吹いてきました。