地元愛と方言(1)

「地元(じもと)」といったとき、それは、自身の生活

している 場所、生活圏(せいかつけん)を指しますね。

 

もし、生まれた場所と、現在まで暮らしている場所が

一致するひとは、地元がどこであるかが、自明のごとく

ピッタリしたものなのでしょう。

 

けれども、グローバル化した時代にあり、複数の土地を

移動するひとが多いのも事実です。

そのような場合、定義にはこだわらず、現在住んでいる
場所を「地元」と呼んでもかまわないのではないでしょうか。
 

私自身、今まで何度も引っ越しを経験してきました。

もともと帰属心(きぞくしん)の薄いほうですが、漠然と、

関東に生まれそこで生活してきた人間という自覚はあります。

 

「地元」を市や町、「出身」をそれらを含む地域や県とする

と、「地方」である関東は、より範囲が広くなるので、特別

な感じ がしないのかもしれません。

 

そんな私が、自分自身の話すことばをつよく意識させられる

 機会が、何度かありました。

それは、大学院に入ってから、フィールドワークと資料収集

のため、他の地方に出かけたときのことです。

 

その土地の人の話すことばが、自分が使ってきた日本語とは、

まったく感触(かんしょく)の異なる日本語であったため、
じわじわと衝撃がひろがったのでした。
 

具体的な相違点は、「イントネーション」と「文末」です。

そこで聞いた日本語は、音楽のように上がったり下がったり
が多く、フレーズの最後の最後まで、エモーショナルな抑揚

(よくよう)がついていたので。

 

違和感よりも、心地(ここち)よさがまさり、いつまでも

聞いていたい気持ちにさせられました。

 

反対に、私が話す日本語は、平板(へいばん)で、どこか

 よそよそしく、「です・ます」の文末が、無機的に響いて
いる気がして、落ち着かなくなったのです。
 

現在、標準語または共通語と呼ばれている日本語は、近代に

 国語を統一するため、創出されました。
 

それは、意思の疎通(そつう)には合理的で、共同でひとつ

の物事をまとめたりするのには、適しています。

 

しかし、一方で、人工的な共有の過程において、ことばは、

 漂白され、脱臭されたともいえるのでしょう。
 

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   菅田将暉(すだまさき)主演のNHKドラマ

      『ちゃんぽん食べたか』より。
 
   時代設定は1960年~70年代。
   長崎県出身の主人公が、口にするセリフ
  「ちゃんぽん食べたか!」は、“ちゃんぽんを
  食べたか?”ではなく“ちゃんぽんを食べたい”

という意味の方言。