字数不足と「薄い」記述の克服

昨日に続き、字数制限のなかで、いかに濃い内容を、

適切な文体で書くか、を考えていきます。

 

すでに、長い論述を多くこなしているひとには、あて

はまりませんが。書くこと自体に苦手意識がある場合、

やはり、それは「書く」以前の準備が足りていないの

ではないか、と推測されます。

  

過日、「リファレンス」は多いほどよい、と書きました。

しかし、日本語のコンテクストでは伝わりにくいかも

しれないので、―完全な同義語ではありませんが―

「インプット」と言い換えてみます。

  

すなわち、「アウトプット」するには、あらかじめそれを

満たすだけの「インプット」が必要である、と表現すると

伝わりやすいでしょうか。

 

もし、完全に、ひとりで論文に向かうには、現物として

の参考文献や資料(紙媒体だったり、デジタルだったり)

が、大量に必要です。

  

以前、大学の卒業論文をサポートした留学生は、読書量が

少なく、書くことも億劫(おっくう)というタイプでした。

日本語以前に、自国語においても、そうであったようで。

インプットが、まったく足りていなかった、ということです。

 

そこで、まずは、ブレインストーミングをおこない、自身が

気づいていない関心のありかを探りながら、意義ある課題

を設定していきました。

 

無論、長い論文の場合には、あらかじめ一定量の読書を

おこなっておくべきなのですが、時間がすでに足りない場合

は、このように集中して、内側に眠っているものを引き出して

いくことも可能です。

  

Wordの白い画面に向かい、ひとりで呻吟(しんぎん)して

いても、時間はいたずらに過ぎていくばかりですから。

 

そのようなときには、すみやかに方途を変えるべき!

 

上述したような、文章に習熟したひとなら、自問自答のよう

なかたちで、ブレストもおこなえるでしょう。

しかし、そこまでの経験がないひとの場合、第三者に引き出し

てもらうことで、一歩を踏み出せることが、多数実証されて

います。

 

そして、推敲の段階で、適切なアドバイスを受け、文章には

メリハリがつき、論文全体が、平板でなく「立体的」になって

いくのです。

 

当然、このようにして完成した文章は、審査する側にとっても、

なめらかに読み進められ…

ハイ! 「読ませる」論文として生まれ変わります。

 

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   文字の印象も美しい「琥珀(こはく)」。

   左斜め上に見えるのは、小型の翼竜

  (よくりゅう)の頭の部分だそうです。

 
 

字数制限に学ぶ

字数制限と「たたかう」、字数制限に「悩む」、

どちらにするか迷っていましたが、やはり、肯定的

な意味を込め、タイトルの通りにしました。

 

大小さまざまな論文、レポートその他、多くの原稿

には、字数制限がつきものです。

 

字数制限の前で、立ち止まるとき、そこには二つの

パターンがあります。 

すなわち、字数不足と字数オーバーです。

 

ごく短いものであれば、悩む必要もないでしょう。

問題は、ある程度の長さを要する論述です。

 

しかし、問題は、単なる長さではなく。

冗漫に書くのか―意図的にそうするひとはないでしょう

が―、「濃く」書くのか、という点は、看過できません。

 

日本語に限らず、同じ内容を扱っても、表現により、

総体的な長さは異なってきますね。 

 

長さの割には、主張も核論も見あたらない、何かの

「まとめ」に過ぎないような文章がある一方で、短い字数

であっても、非常に密度の濃い、読み手を引きつけ

離さない文章があります。

 

長い文章を書いた経験がない場合、まずは、字数を満たす

だけで、精一杯かもしれません。

 

しかし、文章に習熟するにつれ、字数をむだにしないように、

という意識が、おのずと生まれてくるはずです。

 

なぜなら、論述の活字化と発表においては、それまでの労作

の成果を、ベストなかたちで、第三者の目に触れさせる必要

があるのだから。

 

以上を踏まえれば、能動的に書きたい意思がつよく、多少

字数をオーバーしてしまうのは、悪いことではありません。

その場合、推敲をおこなうことで、文章の密度が上がり、

表現そのものにとどまらない論文自体の評価も上がる

でしょう。

 

ゆえに、字数制限は、それを活かすことで、文章力を引き上げ

てくれる重要な「枷(かせ)」ともいえます。

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   時折、具象の世界に疲れると、抽象的世界

   に憩いたくなります…

通り雨のごとく

今日で、5月が終わります。

 

わずか一か月ほどの間、私たちは、以前の日常

生活が取り戻されるのではないか、と日ごと期待

を募らせ、実際に、有事における宣言は解除される

こととなりました。

 

しかし、危機は、通り雨のごとく、私たちの頭上

を通過したのではありません。

 

ささやかな日常が、かけがえのないものに思える

一方で、「大気」が人間を、自然に生かしてくれる

と感じられた素朴な時代は、はるか遠くになりました。

 

ただし、今回のパンデミックにあり、総じてひとびと

の行動は、冷静だったといえるのではないでしょうか。

 

以前、ブログで触れたペーター・スローターダイク

空震』を、今朝、読み返していました。

 

表現には、慎重にならざるをえませんが、世界を巻き込

んだウィルスとの闘いは、疑似戦争の様相を呈していた

からです。

  

近代の世界戦の教訓によれば、災禍の一因に、大衆の意識

の「朦朧状態(もうろうじょうたい)」が、指摘されて

います。

 

スローターダイクは、それを、以下のように分析します。

 

「朦朧状態というのは、人間たちが正常=規範的なもの

(das Normale)に囚われたトランスの中で単なる“トレンド

を追う者”として運動することを指す」。

 

規範とは何か?

 

それは、自明のごとく存在する不変のものではなく、時々

に解体され、構築されていくものなのでしょう。

 

たとえば、日本語で、「ぶれない」というのは、ひとに対し

もちいられる肯定的な評価。

面と向かっていうよりは、当人のいないところで、

「あのひと、本当にぶれてないよね」などと形容します。

 

周囲に対しては、誠実に配慮しながらも、自分自身の軸足を

決めたら、ぶれずに! 粛々(しゅくしゅく)と、なすべき

ことをおこないたいものです。

 

書くことにつく前に

絶対的な、たったひとつの自己からなる人間は、

存在しません。

 

論文レベルでは、「私」でなく、「われわれ」

を主語にする所以(ゆえん)です。

 

それゆえ、書くことの極意(ごくい)は、書く

ことと読むことを一体のものとして考えること。

 

読み書きの行為は、どちらかだけでは、成り立ち

ません。

すなわち、論述の訓練と並行して、読書をおこなう

ことは、必須なのです。

  

つい先日、個人でもできる論述上達の方法はないか? 

という質問を受けました。

 

たとえば、アカデミックジャパニーズに特化した留学生

向けの本は、何冊か出ていて、私も過去にそれを使い、

指導をおこなった経験があります。

→ただし、タイプの異なる留学生たちのクラスレッスン

においてでした。
  

作文の経験も少なく、作文と論文の相違点がわからない

段階であれば、そのようなテキストを、いったん最後

まで終わらせるのも、一つの方法です。

 

しかし、作文のように、気ままに―主観的に―思った

ことを綴っていく―書き足していく―のとは異なり、

論述では、「論拠」を示さなければなりません。

 

その点を踏まえれば、やはりハウツー本だけで、文章が

上達することは不可能だといえます

 

そこで、先日お話しした「リファレンス」が不可欠に

なります。

 いわゆる「参考文献」として、レポートや論文の最後に
示すものだけでなく、広義で、書く行為の参照となる
ものです。
  

根気強く「多読」を重ねていくと、あることがらに

ついて書くとき、別な場で読んだ文章の一節が、参照

されることに気づきます。

 

また、つよく意識しなくとも、読書によって身についた

ことばが、適切に使いこなせていくのです。

 

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フランス歴史学アナール学派に属する

ロジェ・シャルチエは、読書史の研究で

有名ですね。

私は、この中の1章で語られたエピソード

-野生児が、放浪生活を送りながら、独学
 で「知」を極めていく話、が印象的でした。

彼を導いたものこそ、学校や生身の教師で

 はなく、本だったのです。

自己PR

これまで、就職や転職活動に伴う「自己PR」に対し、

何度もアドバイスをおこなってきました。

 

実際に、就職活動全般に関するハウツー本は、たくさん

出ていて、各大学にも就職支援センターはあります。

しかし、主たる対象は、日本人学生なので、留学生は、

やはり外国人であることの「強み」を、スマートに

アピールするのがよいと思われます。

 

私は最初、外国人学習者にいったん任せ、自由に自己PR

を書いてもらいます。

 

なれていないので、仕方ない部分もありますが、共通した

特徴に、

 

1.無難(ぶなん)すぎる。

→どこかから取ってきたコピペのような印象。

 

2.書くまでもないこと、を書いている。

→字数を稼いでいるだけのようで、気持ちがこもっていない。

 

といった点があります。

 

つまり、完全に間違ったことをいっているわけではないし、

あからさまに不真面目でもないのに、自己PRの「PR」その

ものが、脱落しているのです。

 

そこで、何がよくないかを指摘した後で、「自己分析」に

入ります。

 

以前、「自己PR」のハウツー本に目を通してみました。

確かに参考にはなる部分もありますが、資格試験のように、

一つの問いに対し、ただ一つの答えが存在するわけではない

ため、万能ではないと感じました。

 

やはり、学習者の数だけ、自己PRもあるので、第三者

アドバイスが不可欠でしょう。

 

「自己PR」を、履歴書に書くものに限定せず、広義の意味で

捉えるなら、論述においても、同様なことがいえます。

ただ内容が正確であればよいのでなく、むしろ必須な「オリジ

ナリティ」の部分が、自己PRに該当するという意味です。

 

実は、上述した二つの傾向は、長い文章や、論述経験の少ない

ひとが陥るマイナス点です。

→レポートなら、ぎりぎり「可」でパスするかもしれません

が、より高いレベルを求められる論述では、点数がつきません。

 

現実に、ライバルは大勢!

 

その中から、ジャッジする人間の「目に留まる」ような、生きた

ことばで語ることが大切なのです。

 

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        ブロッケン現象

          猪熊隆之 撮影

朝型の生活

反省しています、いつも。

完全な朝型の生活に切り替えられないことを。

 

言い訳がましいですが、学生時代のほうが、

完全ではなくとも、学位論文完成という大きな

目標のため、それがおこなえていました。

 

現在は、生活の要素がもっと複雑になっていて…

 

無論、夜型のほうが効率がいい、というひとも

いるので、あくまでも 個人的な経験談になり

ますが。

 

早朝に起きると、頭の回転が速く、インスピ

レーションも湧きやすい!

 

たとえば、ずっと思考していながら、迷路や隘路

(あいろ)にはまり込んでいる「問い」があった

とします。

 

それが、数式が解けるようにすらすらと、解答へ

の道筋がたどれて、「キタ!」となるのです。

調子がいいときには、目ざめてすぐペンをとり、

ノートに書きつけはじめます。

→PCではないのがポイント!

 

脳内で、というより体内で、何かがグルグルと

動いているのを感じ、それが「熱いうちに」作業

を進めなくては、とベストな状態で、1日が始まり

ます。

 

対照的に、夜遅く寝て、昼近くに起きたとき、

このような「訪れ」を経験したことはありません。

 

極端な夜型が続くと、体は疲れていても、頭が起きて

おり、不眠症になります。

 

そうはいっても、締め切り間近になると、健康ばかり

に気を遣っても いられず、徹夜もしばしば。

その場合、多少、体調をくずすことは「想定内」です。

 

ただ、完全にダウンしないよう、ベストな働きが

おこなえるよう、普段から体力と気力を蓄えています。

 

しかし、であるからこそ、基本は朝型の生活が好ましい

のです。

  

時間術

今日の午前、新規のレッスン希望者に、30分の無料

カウンセリングをおこないました。

 

大学の3年次編入を考えていて、受験に、小論文が

必要だそうです。 

すでにいくつか、受験する大学の候補を決めている

ようですが、「本命」と「滑り止め」をつくるのは、

基本的な考え方として正しいですね。

 

さて、「コロナ」発生以後に変わったものとして、

「時間」の感覚は大きいのではないでしょうか?

 

平生と同じように動きたいのに、動けないもどかしさ… 

何かしなくてはならないと焦りつつ、無為のように過ぎ

ていく時間の惜しさ!

 

翻って、時間の貴さと不可逆性(ふかぎゃくせい)が、

多くのひとに意識されたのではないか、と想像します。

 

そこで「時間術」です。

 

少し唐突ですが、皆さんは、朝型ですか? それとも

夜型ですか?

身についた習慣は、変えづらいですが、何となくそう

するのでなく、どちらかに切り替えることで、勉強の

成果が出やすくなるかもしれません。

  

また、大きな目標のまえには、いかに時間のムダを

なくすか。 

特に、最近、注目の働き方である「個人事業主」や、

複数の仕事を兼業 するひとは、時間をみずから掌握

(しょうあく)しようとしているようです。

 

それに関連して、昨年末、「ホリエモン」のニック

ネームで知られる 堀江貴文さんが、

『NO TELEPHONE』という曲をリリースし、話題

を呼びました(一部で)。

 

イマドキ、電話なんかかけてきて、他人の貴重な時間

を奪うな♪ というメッセージです。

 

はたして音楽で表現することが、適切だったのか?? 

は疑問ですが、 時世を反映している、とは、いえるかも

しれません。

 

さて、先日「締め切り」のテーマでも書きましたが、

私の時間術の基本は 「逆算」です。

 

つよく意識するというより、仕事と研究に同時進行で

取り組むなか、自然に身についたもので、これなくして

前には進めません。

 

下から積み上げていく方法では、いくら時間があっても

足りない! 

論文執筆で、最初に「章立て」をし、全体の素描を

おこなうように、レッスンにおいても、ゴールを先に

確認します。

 

そこから、限られた時間内で、より効率的な学習計画が

立てられるのです。

 

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   京都の三十三間堂で、新成人により

   おこなわれる「大的」(おおまと)の大会

   佐藤慈子 撮影

 

     時間は、飛ぶ矢のごとく…

学歴+α

今日は、朝一番にうれしいニュースが入ってきました!

緊急事態宣言の解除を受けて、図書館が再開されると

のこと。

 

早速、読まねばならない本を、まとめて借りに行きます。

 

さて、昨日は、コロナ禍を経て、ひとびとの価値観も

変わったのではないか? というお話をしました。

 

そこで、今日は、あえて生(なま)な現実について、

語ろうと思います。

 

学歴―それをまったく重要視しない国は、世界の中でも

多くはないでしょう。 

日本でも、無論、高学歴であることは、社会において

一定の効力を有します。

  

思えば、私も、中学生になったころから、「偏差値

(へんさち)」について、周囲のおとなから、口うるさい

くらい(!)理想のラインを示されてきました。

 

いわく、まず「70あれば一安心(ひとあんしん)」とか、

「60以下は論外」とか。

 

こちらの身を案じて、忠告してくれているのであっても、

オブセッション が募(つの)り、10代にして厭世観

(えんせいかん)を抱いたものです…

 

端的に、学歴は、高いに越したことはありません。

たとえば、これから大学や大学院の受験を控えている

留学生なら、時間を有効に使い、高めに理想を設定する

のが望ましいです。

 

しかし、時間の有限性も無視できないですね。

つまり、2年かけて第一志望の大学に入るのか、1年で

第二志望の大学に入るのか。

 

学歴ロンダリング」※1)という、冷笑的で、意地の

悪い俗語があります。

最終学歴を上げていくことを指しますが、個人的には、

そんなのは「外野(がいや)の野次(やじ)」くらいに

受け止め、無視すればよい! と考えています。

 

むしろ、一度どこかに入学した後、編入で別な大学に

入り直す※2)、 修士課程、博士課程で、さらに上の

大学院をめざすといった姿勢は、意欲的であり、評価

されてよいことでしょう。

 

それは、外に与える印象だけでなく、学びの環境の

レベルを上げるという意味でも、むしろ有意義では

ありませんか!

 

とはいえ、社会に出る際、見落とせないのは、学歴

「プラスアルファ」の部分です。

 

ここには、すべてを書ききれませんが、現実的には、

履歴書に載せられるような長所を増やしていくのが、

決定的に大切です。

  

わかりやすいケースを設定すれば、学歴が最上位で

あっても、アピールポイントに乏(とぼ)しい者と、

そこまでいかずとも良い大学を出て、アピールポイント 

多くある者とでは、ジャッジする側の人間は、どちら

に好印象を抱くでしょうか?

 

そう考えると、学歴は、無敵の護符(ごふ)ではなく、

入れば勝ちというものでもありません。

 

さらに、そのとき効力を発するのが、自分自身の

「見せ方」!

当然、それまで身に着けた日本語の「表現力」も、大きく

関わってくるのです。

  

※1) 「マネーロンダリング」=資金洗浄(しきんせんじょう)

に由来する。

 
 

※2) 最終学歴により、2年次入学、3年次入学が可能な大学が

  あるが、すべての学部、学科で実施してはおらず、募集人員

  も「若干名」。

  受験を決めたら、過去問題を徹底的に分析して、準備万端

  で臨むべし!

 

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  パウル・クレー『上昇』

フレキシビリティ

早いもので、このブログを開始してから、今日で

ちょうど2か月が経ちました。

ブログを書くこと自体、初めてだったので、最初は、

何をどう書くか手探りの日々でした。

 

並行して、投稿論文を執筆していましたが、難しかった

のはブログのほうです。

 

何より大きな相違は、論文は、審査員が読むものと

決まっているけれど、 ブログは、どなたが読んでいるか

わからない、という点… 

 

まるで自分自身の影と格闘するように? 舞台裏では、

文字を書いたり消したりしつつ、内容を吟味しています。

 

そして今日、時を同じくして、緊急事態宣言が解除され

ました。

 

長いようで、実際には、予想よりも短い自粛期間だった

といえます。

しかし、この「解除」は、単にある事態の解除には

とどまらないのではないでしょうか。

 

つまり、それ以前と以後では、私たちのものの見方も、

大きく変化したと思います。

 

この2か月間、『日本語空間』にもいろいろな問い合わせ

があり、実際にその中からいくつかのレッスンがスタート

しました。

 

内容はすべて異なりますが、困難な状況にあっても、

ペースをくずそうとしない皆さんの態度は同じです。

そのひたむきさに、深い敬意をおぼえながら、同時に

身が引き締まる思いで、仕事に向かっています。

 

そもそも、人生にゼロリスクなんてない!

 

フレキシブルに、「知」の資本を活かし、立ちはだかる

壁を乗り越えていきましょう。

 

本日も、ここを訪れてくださり、どうもありがとうござい

ました。

 

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                                       夜の船着き場   

                       2020.5.24
 
 

 

可能性を引き出す

今週は、リファレンスや推敲、締め切りなどに

ついてお話ししながら、それらが、より広い世界

に反映される可能性について、考えてみました。

 

リファレンス→「知」の資本。

推敲→自己を客観視する行為につながる。

締め切り→時間術

 

大切なことがらなので、真剣に語りましたが、

決して「上から目線」ではなく、自分自身にも問う

つもりで、襟(えり)を正させてもらいました。 

 

他の場所でも書いたとおり、日本語は、話しことば

と書きことばに「乖離 (かいり)」があります。

 

日本人は、無意識にその中で生活していますが、

それは、歴史的経緯と深く関わっています。

  

実は、日本人の研究者レベルでも、論述表現に対する

意識は、人それぞれです。

しかし、第一線で活躍している人物は、書くことの

基本をおろそかにはしません。

 

ここで、大切なお話をします。

 

「日本語空間」では、論文のサポート中、アドバイス

は、積極的におこないますが、ご本人の希望を、何より

尊重しています。

 

以下に、これまでの具体的な希望と対応の例を挙げます。

 

「文章自体は完成しているので、正しいかどうかだけ

チェックしてほしい」。

→基本的な日本語の添削のみ

 

「上手すぎず、しかし間違いもない日本語にしてほしい」。

→論述的にかっちりし過ぎないながら、正しい日本語にする。

 

「何から手をつけていいかわからない」。

ブレインストーミングから、じっくり話し合って、方針

を決める。

 

他、多数。

 

計画は、つねに可変的に。

限りある時間のなかで、柔軟に取り組んでいます。

学習者の数だけレッスンの数はある! と捉え、よりよい

到達点を目指します。

  

締め切り、それは...

締め切り、それは、きつい「縛り」であるととも

に、この上ないカタルシスをもたらす「解放」! 

…といいたい。 

 

学位論文のほかに、修士課程ともなると、研究業績

を意識して、意欲的に論文の投稿をおこないます。

 

研究業績が増えてくると、ときには、外部から「寄稿」

の依頼を受ける こともあります。

 

以前書いたように、私は、自身が志した分野の先行

研究がほとんどなかったこともあり、特定の教員に

師事する経験を持ちませんでした。

 

出発からして、太平洋に木の舟を浮かべ、ひとり

漕ぎ出すといった風だったのです…今思えば。

 

しかし、専門外ではありながら、リファレンスを多く

持つベテランの教授―研究者を育てる意思のある―に

出会い、研究を進める上での「基」となる貴重な

アドバイスを得ました。

 

なかでも「活字化されたものを増やしなさい」という

教えは、有意義 なものでした。

→「論文」でなく「活字化」という広い枠の示唆(しさ)!

 

そこで、投稿論文以外にも、こちらから声をかけ

ニュースレターに記事を書かせてもらったり、書評など

をおこなったりするうちに、全集の月報や雑誌への寄稿

を、依頼されるようになりました。

  

つまり、自分自身で、学位論文の完成という「大きな

締め切り」と同時に 「小さな締め切り」を、可能な限り

作っていったのです。

  

そうやって、心の「張り」を保つことは、モラトリアム

になりがちな学生生活―同時にそれこそ学生の特権で、

Viva!ですが―には、大切であった と考えています。

 

締め切りができると、生活は、それを中心に回っていく。

他のことは、 すべて後にして。

 

しかし、締め切りがあるのは「救い」。

なぜなら、一度勢いづいたら、締め切りがない限り、

延々と書き続けているでしょうから。

 

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   風祭哲哉 撮影「宗谷の白い貝殻の道」

 
  北海道の宗谷岬(そうやみさき)は、日本の
  北端(ほくたん)に位置します。
  鹿の足跡(あしあと)の先には、日本海
  大海原(おおうなばら)が広がっています。

「見てもらう」ことを意識する

「書く」という行為には、何かしらのかたちで、

書いたものを他人の目に触れさせるという目的が、

ほとんどの場合伴います。

 

それを意識に留めるか、意識を持たずに漠然と

書き進んでいくかで、到達点は、まったく異なる

ものとなるでしょう。

 

「正確さ」は、基本であって、それだけですべて

を満たすものではありえません。

  

多くの人間に、卓越している! と感じさせる

ような文章は、たしかにあります。

一方で、すべての人間が、100点満点をつける文章

も存在しないのです。

 

たとえば、科学などの分野においても、完全な

客観視はありえず、「判断」には、つねに主観が

つきまといます。

 

つまり、高い評価を得るには、どのような場で、

誰に見られるか、を徹底的に分析すべきなのです。

 

現実に学会などで、投稿された論文に、審査員全員

が「A」をつけ、修正箇所ゼロで、掲載が決定される

ようなケースは、多くないでしょう。

 

むしろもっと低評価で、評価にばらつきがあっても、

リライトの機会をもらい、再提出して「掲載を勝ち

取る」というケースもめずらしくありません。※1)

→だからメンタルは打たれ強く! 最後まであきらめない!!

 

学士論文、修士論文、博士論文と、難易度は当然

上がってきて、博論の場合、自身の属する大学院の

外から、最低でも1名の審査員が入ることになります。

 

また、就職活動全般においても、「見てもらう」ことを

意識するのは同じです。

→「読んでもらう」より広い範囲で考えられますね。

 

誰も、寝起きで、髪もとかさず顔も洗わずに、シャツを

羽織(はお)って、面接には行かないでしょう。

それ以前に、志望理由書にも、自身の都合でなく――本音

を丸出しにせず――「貴社」の魅力を、適切な表現で

盛り込むでしょう。

 

学生時代、大学院の先生が、論文には「作法があるから」

と、おっしゃるのを 何度か耳にしました。 

ただし、具体的な説明はありませんでした。

 

それは、まず「見てもらう」姿勢を持て、というメッセージ

なのだと、解釈して 現在に至っています。

 

※1) 査読を経て、コメントをもらいますが、もし「不可」

   であっても、それを参考に再投稿する、といった

   繰り返しが、研究者を鍛え上げていきます。

 

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      昌平坂学問所東京大学の源流)の講義風景

芸術作品ではないが/芸術作品ではないからこそ

たとえば、前衛的な画家なら、まるでオートマティズム

(Automatism)のようにして、一気に描き上げた絵を、

手直しすることはない。

 

あるいは、バンドのミュージシャンが、一発録り

(いっぱつどり)で編集しない音源を、あえてリリース

することもある。

 

理由は、その勢(いきお)いだったり、初期衝動

(しょきしょうどう)だったり、「型にはまっていない」

何かが、「貴(とうと)い」と考えるから。

  

一方で、昨日の最後にお話しした「推敲(すいこう)」

の故事のように、詩人や小説家が、何度も文章を練り直し、

作品の完成度を上げていくのは、古今東西(ここんとうざい)

の習いである。

 

上述したのは、いわゆる芸術作品を創造する過程です。

 

翻(ひるがえ)って考えれば、論述に、入念な推敲が必要

なことが、よく理解されるでしょう。

 

つまり、いったん書き上げた文章を、ろくに見直すことも

なく提出するなどは、外側からは「勢い」のような行為に

映ります。

 

一方で、時間をかけて文章を練り上げていくことは、

基本的に重要ですが、 論述に求められているのは、華麗な

レトリックではありません。

 

換言すれば、文章表現には、「内容」に見合った、「内容」

を活かす形式が存在するということです。

文理の専門を問わず、論理的一貫性は無論、文章が端正で

あること、格調があることも、当然、評価に加味されます。

  

特に皆さんは、日本語という外国語で綴るのですから、

自分自身が完成させた文章には、思い入れもひとしおでは

ないでしょうか。

 

その文章を、よりよく見せるために、推敲の量と質は、

無視できないものなのです。

 

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       Lindenmeier, L-System

「推敲(すいこう)」の話

推敲(すいこう)――それは、文章を書いて他人に

見せる際、特に重要でありながら、最も基本的な行為

です。

 

学校などの機関では、論述指導と称して、フォーマット

的な部分は教えてくれますね。

 

しかし、推敲について、力説する教員は――遺憾ながら

――多くはないようです。

 

そこで、今日は、念入りな「推敲」なくして評価を得ら

れる論述はない! と断言させてもらいます。

  

たとえば、一口に文章といっても、備忘録(びぼうろく)

や簡単なメモの表現力を、高める必要はありません。

なぜなら、それらは自分が読んでわかればよいものだから。

 

一方で、どこかに提出する論述は、自分ではなく、それを

読む「相手」が理解できるよう、「説得力」を持って書か

ねばならない。

 

これは、当然だけれども、容易ではない点です。

 

たとえば、成績評価にかかわるレポートを読むのは、担当

教員1人でしょうが、学位論文や投稿論文は、複数の審査員

が目を通します。

 

そのような場では、推敲を経ない文章は、いかに内容がよく

とも、最後まで読んでもらえないかもしれません。

 

これまで、締め切り直前になり、自分ひとりではどうする

こともできず、飛び込みのように依頼してきた留学生の論文

を、何度もサポートしました。

 

ケースバイケースなので、一括(ひとくく)りにはできま

せんが、基本の作業は、一刻も早く、いったん最後まで書き

終わらせてから、「推敲」に入る、という流れです。

  

デッドラインをこちらで変えることはできません。

 

しかし、ぎりぎりまで、可能な限り、推敲を繰り返して、

文章の完成度を上げていくのです。

 

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       「推敲」の由来

 

 唐の詩人・賈島(かとう)が、自分の作品で

「僧は推す月下の門」にするか「僧は敲く月下の門」

 にするか、非常に迷った、という故事(こじ)に

 よるもの。

 現在、日本語では「押(お)す」、「叩(たた)く」
 の漢字が使われているため、わかりにくいですが。

リファレンス(reference)

「リファレンス」は、多ければ多いほどよいです!

と、今日の結論を、先にいわせてもらいます。

 

皆さん、こんにちは。

週明けから、はっきりしないお天気が続きますね。

 

緊急事態も、宣言の解除まで、あと一息という

ところなのに、なかなか基準を満たさず、

もどかしい…

 

こんなときは、実用的なことより、楽しい内容の

ほうがいいのか? などと悩みつつ、今日も書きます。

 

私事になりますが、投稿論文の締め切りが、来月に

迫ったので、仕事をしていないときは、ずっと執筆

に取り組んでいます。

 

おかげさまで、アウトラインは完成して、あとは

部分的な「書き込み」と「推敲(すいこう)」が、

主たる作業となりました。

 

今回、苦労したのは、やはり参考文献。

CiNiiその他で、オンライン上にアップされている論文

は、読むことができますが、図書館が、軒並み閉館して

しまったのは、前代未聞(ぜんだいみもん)の事態で、

マイッタです!

 

通常であれば、国会図書館や、大学の図書館が利用

しやすいですが、地域の図書館も、洋書がないことを

除(のぞ)けば、かなり有用なのに…

 

しかし、先日記したように、閲覧だけでなく、窓口で

の手渡しもできなくなったため、郵送で貸し出しを

してもらっています。

 

洋書は、アマゾンで購入することにしました。

 

さて、冒頭に戻って、よい論文、否(いな)、文章全般

を書くのに際し、リファレンスは多いほどよい、といえ

ます。

  

論文以前に、レポートのように短い論述でも、何を参照

したかは提示せねばなりませんね。

そのとき、文章だけでなく、参考文献も、当然、評価の

対象に含まれます。

 

公的に記す参考文献は、数が多ければよいというもの

ではありませんが、少なすぎるのも、また問題で。

 

せっかく見当をつけて読んだのに、やっぱり使えない、

というときには、 誰でもがっかりするものです。

 

そこで、普段から、自分自身の専門は無論、読書の幅を

広げておくことがとても重要です。

専門を「縦」に掘り進めるだけでなく、「横」にも分野

を横断するよう心がけると、知識は、布のように密になり、

さらに建築のように立体的になります。

 

また、最終的にその文献や資料が使えなくなったとしても、

大量の文章を読みこなすことで、自分自身の文章力も、

確実にアップするでしょう。

 

こと文章に限らず、リファレンスの量と質は、「知」を

形成する最たる要素か、と。

 

それでは、曇り空を吹き飛ばし、今週も、前に進みましょう。