「見てもらう」ことを意識する

「書く」という行為には、何かしらのかたちで、

書いたものを他人の目に触れさせるという目的が、

ほとんどの場合伴います。

 

それを意識に留めるか、意識を持たずに漠然と

書き進んでいくかで、到達点は、まったく異なる

ものとなるでしょう。

 

「正確さ」は、基本であって、それだけですべて

を満たすものではありえません。

  

多くの人間に、卓越している! と感じさせる

ような文章は、たしかにあります。

一方で、すべての人間が、100点満点をつける文章

も存在しないのです。

 

たとえば、科学などの分野においても、完全な

客観視はありえず、「判断」には、つねに主観が

つきまといます。

 

つまり、高い評価を得るには、どのような場で、

誰に見られるか、を徹底的に分析すべきなのです。

 

現実に学会などで、投稿された論文に、審査員全員

が「A」をつけ、修正箇所ゼロで、掲載が決定される

ようなケースは、多くないでしょう。

 

むしろもっと低評価で、評価にばらつきがあっても、

リライトの機会をもらい、再提出して「掲載を勝ち

取る」というケースもめずらしくありません。※1)

→だからメンタルは打たれ強く! 最後まであきらめない!!

 

学士論文、修士論文、博士論文と、難易度は当然

上がってきて、博論の場合、自身の属する大学院の

外から、最低でも1名の審査員が入ることになります。

 

また、就職活動全般においても、「見てもらう」ことを

意識するのは同じです。

→「読んでもらう」より広い範囲で考えられますね。

 

誰も、寝起きで、髪もとかさず顔も洗わずに、シャツを

羽織(はお)って、面接には行かないでしょう。

それ以前に、志望理由書にも、自身の都合でなく――本音

を丸出しにせず――「貴社」の魅力を、適切な表現で

盛り込むでしょう。

 

学生時代、大学院の先生が、論文には「作法があるから」

と、おっしゃるのを 何度か耳にしました。 

ただし、具体的な説明はありませんでした。

 

それは、まず「見てもらう」姿勢を持て、というメッセージ

なのだと、解釈して 現在に至っています。

 

※1) 査読を経て、コメントをもらいますが、もし「不可」

   であっても、それを参考に再投稿する、といった

   繰り返しが、研究者を鍛え上げていきます。

 

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      昌平坂学問所東京大学の源流)の講義風景