空間を偏在させる

7月も今日で終わります。

 

ウィズコロナの日常に免疫がついたのか、

活発な動きのみられた一か月でした。

 

無論油断は禁物ですが、危機がもたらした

利点として、生活の創意工夫が挙げられる

でしょう。

もとよりそこに存在したものなので、一から

の創出ではないながら、「スカイプ」の

効用が実感されたのは幸いでした。

 

できれば対面がよいが一時的にスカイプを、

と希望した学習者の方もいましたが、

非日常はもはや日常になりつつあります。

 

7月初旬、サバティカルで来日していた

医学部の教授が、予定を短縮し帰国すること

になりました。

しかし、帰国後もスカイプでレッスンが継続

されています。

 

他にも、芸術方面のお仕事を長くされている

方、大学入試を控えている留学生の方、と

学習者が増え、個々の「空間」はより多様に。

そして「偏在」が可能になっているのは、

よろこばしい限りです!

 

それぞれの空間を、より豊かなものにする

ため、本日も全力で臨みます。

 

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                外国人居留地

巣立ちのとき

7月も終わるというのに、旧HPのままで失礼します。

 

いったん外部にデザインの変更を依頼したのですが、

紆余曲折あり、うまくいかず…

 

仕事も加速的に忙しくなったため、ブログに向かう

気持ちがそがれてしまっていました。

反省することしきりです!

 

7月始めと聞いた梅雨明けが、どうしたことか大外れ

ですね。

 

それでも気分転換に、雨を押しウォーキングを欠か

さぬようにしています。

 

今の季節、街を歩いていると特徴のある幼い鳴き声

があちこちから聞こえ、その方をたどっていくと

燕の巣が。

 

飛ぶ練習をしなければならないのに、雨続きで

大変ではないか? というこちらの心配などには

かまわず、気づくと巣は空になっていたりします。

 

梅雨は明けずとも、今年最後の子燕は、もうすぐ

巣立ちのときを迎えるでしょう。

 

バイバイ、またね。

 

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ドラッグストアの監視カメラ上に巣が…

自動ドアの真ん前なのですが、カラスのような

天敵が寄りつかぬようわざと人気(ひとけ)が

ある場所に巣作りするようです。

万物流転(ばんぶつるてん)

しばらくぶりでブログの更新をします。

 

うっとうしい天気が続きますが、皆さん、お元気で

お過ごしですか?

 

東京では、いったん収束したコロナがまた発生し、

ふたたび緊張感が高まっていますね。

 

学校や会社、各地域では、警戒を怠らぬよう対策を

講じていますが、一方で、日常はだいぶ活性化

しているようです。

 

『日本語空間』も、6月から問い合わせが増え、

学習者の数が多くなりました。

毎日、24時間が飛ぶように過ぎていきます(汗)!

 

今日は、オフの時間、都市ウォッチャーとして

駅構内にできたあたらしい施設を見学。

上階にある無国籍的なバーやレストランは、以前

訪れた香港の蘭桂坊(ランカイフォン)を思い起こ

させ、「非―場所」的な眩暈を誘いました…

 

このような連想は、現在、苦悩しながら民主の灯を

消さぬよう闘い続けている彼の地に対しては、

不謹慎かもしれませんが。

私は、清廉なだけでなく、したたかにエネルギッシュ

な香港が好きでした。

しかし、それでは、何をなすべきか?――

 

ここ港町も、江戸のような都市計画に基づいて造成

されたのではなく、国外を臨む海側を中心に、事物が

つど生成するごとくできあがった場所です。

 

香港に比してはスケールが小さいですが、近代から

ソトへと向かい開かれた街をよぎりながら、

panta rheiの想いをつよくします。

 

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黒船(くろふね)キタ!

小休止(しょうきゅうし)

6月も残りわずかとなりましたが、皆さん、学業に

励まれていますか。

 

これまで3か月近く、ブログを書いてきましたが、

最近、忙しくなり過ぎ、手が回らなくなっていました。

  

HPのレイアウトも、変えねばと思いつつ、そのまま

になってしまっていて、心苦しいです…

読みづらい点が、多々あることを、お詫び申し上げます。

 

そこで、小休止をしたのち、パワーアップして戻って

こようと考えました。

一応、7月の始めには、再スタートできたらと希望して

います。

 

『日本語空間』自体は、オープンしていて、今日も3人の

方にレッスンをおこないました。

熱心な学習者と向き合えることは、この上ない幸せです。

 

梅雨の只中ですが、皆さん、どうかお元気でお過ごしくだ

さい。

 

それでは、7月に。

 

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文章との距離

文章は、長くなればなるほど、自分自身との間に距離

を取らないと、全体が視野に入りません。

 

あたりまえのことのようですが、距離が近すぎると、

書き進められなくなってしまいます。

 

以前、外国に投稿をしたとき、審査を通過したのは

よかったのですが、最終の校正時間が少ししかあたえ

られず、パニックのようになりました。

 

日本では、慎重さを期し、倍以上の時間があたえら

れるのですが…

まあ、それはそれで訓練にはなりました。

 

文章は、その場で直して終わりでなく、最低でも1日

置いて見ないと、推敲が不可能です。

 

また、画面上でなく、必ずプリントアウトしてチェック

すること。

音読をして、だれかに聞いてもらうこと。

もし、だれかに聞いてもらわなくとも、声を上げ

読んでみると、不備に気づきやすいです。

 

現代は、手書きでなくなり、書くのではなく打つのが

主流になったとはいえ、文章をものする行為とは、

アナログな性格を多分に有するものだと、つくづく思い

ます。

 

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   歌川広重『大はしあたけの夕立』

      (名所江戸百景)より

静謐(せいひつ)な時間

論文の完成まで、あと一息というところで、簡単に

仕上げたくない気持ちに引かれ、踏みとどまって

います。

 

懐疑すること。

 

限定的に答えが決まっていないからこそ、「わかった

つもりにならず」、何度でも問いを繰り返すこと。

 

事務所から家に戻る時間が惜しくて、リーズナブル

なホテルに宿泊しました。

 

深夜、ラウンジへ行くと幸いだれもおらず、ひとりで、

プリントアウトした原稿に目を通すことができました。

 

PCの画面上では、完全な推敲はおこなえません。

 

直せたと思っても、プリントアウトしたものからは、

必ず訂正箇所が見つかります。

 

自身をわざと追い込みながら、より高みを目指す!

 

赤字の散らばった原稿――

静謐な時間が流れていきます。

 

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  ドイツのヴェストファーレンにある「星空の寝室」

 

『可笑(おか)しなホテル―世界のとっておきホテル24軒―』
  ベティーナ・コバレブスキー著 松井貴子訳 
  二見書房(2011)より

手仕事

著書『漂うモダニズム』で、槇文彦氏は、建築の

デザインの過程が「理性と感性の間断(かんだん)

なきキャッチボールによって生まれてくる」と

 表現しています。
 

AI時代の到来が、真実味を帯びてきている現在。

 

淘汰(とうた)されずに生き残る強靭(きょうじん)

な「知」とは何か? と問うとき、そのような

キャッチボールから、人間が生み出す「何か」が、

リアルに感じられます。

 

前回紹介した田中智之氏のボールペン画は、あたかも

建造物の「レントゲン」のようです。

 

驚くべきことに、田中氏は、描くまえにコンピュータ

は使用しない、といいます。

 

なぜかというと「必要ないから」。

 

まずは、鉛筆でドラフトを作成し、注意深くペンで

仕上げていくそうです。

情報を1週間で整理し、描くのに要するのは、わずか

1週間。

 

肉体に備わった「理性」的な透視眼の精巧さ!

 

一方で、設計とは異なり、対象物はすでに現前する

ものの、いかにそれを表現するかという「感性」も、

当然、動員されます。

 

その力量には、瞠目させられますが、確かな存在感

を放つ空間をささえているのは、手仕事への静かな

情熱ではないでしょうか。

 

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       熊本大学 田中智之研究室

       (施工:相互運輸 三善建設)
    熊本地震発生から2か月後に、熊本大学で立ち
    上げられた復興プロジェクトにより、公園の
    敷地内に建てられた。
    ※『新建築』2017年9月号より

文章の中を循環する

投稿論文の締め切りが迫ってきたため、最後の仕上げに

向かっています。

 

字数制限は、一般的である2万字。

いったんは、かなりの字数オーバーとなりました。

しかし、その後、字数を減らしつつ、表現を整えていく

のは毎度のこと。

 

誰から教わったのでもなく、気がつけば身についていた

方法ですが、こうして結果を出してきたので、妥当では

ないかと考えています。

 

序章から終章まで、各章の完成度は80%くらい。

まずまずといったところです。

 

全体が、ある程度書きあがってからは、1章分の見直し

が終わると、最初にまた戻る、という作業を繰り返して

います。

 

文章の中を、循環するイメージです。

 

こうすることで、「部分」と「全体」への目配りが行き

届き、整合性が強化されます。

そうして、記述も、ぎゅっと凝縮されていくのです。

 

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     『新宿駅解体』(田中智之)

 

   実際は、白地にブルーの繊細なペン画です。

  そのままでは見づらいので、あしからず

  フィルターをかけました。

アニミズム的心性

先日、関東でも梅雨入り宣言が出されました。

 

早く明けてほしいと願う一方で、梅雨が明けたら

一気に暑くなるな、マスクがつらそうだな…と、

身構えたりします。

 

先日、夜の商店街を歩いていて、てるてる坊主を

見つけました。

良い天気を願い吊るすものですが、存在は知って

いても、見かける機会は稀(まれ)なので、新鮮

でした。

 

素朴ながら味わい深いものがあります。

 

しかし、現代の子どもが、実際に作ったりするのか?

作成者が気になりますね。

 

キリスト教系の高校に通っていたとき、「宗教」の

時間で「ビルの屋上に、“お稲荷(いなり)さん”が

祀(まつ)られているのは、おかしくないですか?」

という問いが、1回目の授業の導入だったと記憶して

います。

→「ご利益(りやく)宗教」ってどうでしょう? 

という…

 

批判精神に乏しいこどもだったせいか、問いかけで

あったのに、おかしいことなんだ! と、即座に思い

込んでしまいました。

 

それ以降は、神社に足を踏み入れることはあっても、

賽銭を入れ、鈴を鳴らし、願をかけることはしなく

なりました。

 

日本人のアニミズム的心性は、しばしば外部から指摘

されますが、文化の内側にいると、分析よりは、感得

をするものなのでしょう。

 

事務所がある港町には、海の方を臨み、大きな神社が

建って います。

坂の下から上まで続く長い階段の上にそびえたつ姿は、

豊かな緑に包まれ、威容(いよう)という形容が

ふさわしいです。

 

能動的に宗教的行為をおこなわずとも、そこで感じ取ら

れる霊気のようなもの―自然の気配は、アニミズム

心性に根差しているのかもしれません。

 

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立体的に書く

いささか唐突ですが…

このブログを訪れるすべての方のニーズに、お応え

できないことが、遺憾であります。

 

良かれと判断して書いた内容が、誤解や混乱を与え

ないことを願っています。

 

最近、私自身が、どこに向かって書くべきなのか、

迷い、悩んでいました。

なぜなら、この文章を読むのは、不特定多数の

外国人学習者の方だからです。

 

それで、内容が明快でなかったり、流れを重視

した結果、かえって重複したり、散発的になったり

するのに、反省しきりでした。

 

しかし、やはり基本的には、日本語ネイティブ

レベル、研究者レベルを目指す学習者を、意識して

書き進みたいと思います。

 

そこで、今日は、学位論文や投稿論文といった長い

論述をおこなう際、重要な点のひとつについて

お話しします。

 

すでに、意識しているひとも少なくないと思います

が、論文の「構成」をきっちりおこない、「部分」

と「全体」に目配りしつつ、連関を意識して書くと、

平板でない立体的な文章になります。

 

と、理屈はそうでも、それは、一気に体得できる技

ではありません。

 

しかし、この点を念頭に、書くことを積み重ねる

うち、感覚がつかめていくでしょう。

 

たとえば、締め切り間近の学位論文のサポートを

依頼された際、日本語の添削以外にも、可能な限り

完成度を上げたい、という希望を受け、平板な記述

を立体的に書き直していくことがあります。

 

結果、審査員からの「日本語表現がすぐれている」

というコメントには、細部の表現にとどまらない、

立体的に日本語が綴られている、という評価が

含まれていると考えられます。

 

先日も書いた通り「読ませる」文章は、多数の中に

あっても、埋没せず、輝きを放ちます。

 

そこでは、立体的に書く、ということが、切実に

かかわっているのです。

 

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    建築家の前川國男(1905-1986)邸

出(で)だしの一行

建築家の槇文彦(まきふみひこ)氏は、21世紀の今日、

歴史的な「時間」軸(じかんじく)よりも、「空間」

が意識されている、と語っています。

 

われわれは、過去の時代のように、同じ時代の、同じ船

に乗り合わせているという感覚を、もはや持たない。

そうではなく、各人が、大海原(おおうなばら)に

「漂(ただよ)っている」のだと。

 

とはいえ、そのバラバラな中にも、潮流は見出せるはず

で、そのひとつを「共感としてのヒューマニズム」である、

と指摘します。

  

たとえば、「これで安心して死ねます」と、市民がいえる

ような葬祭場(そうさいじょう)を、設計するとき。

 

建築家は、その「出だしの一行」から、全体を紡(つむ)ぎ

だしていかねばならない。

 

槇氏はまた、別な場所で、「書くこと」と「つくること」を、

同じ思考の原点を分かちあう、と述べています。

 

書くという行為は、基本的には、ひとりの作業です。

単に書くことは、出だしの一行のあとにも、平面に書きつけて

いけばよいわけで、立体をつくることよりは、自由度が高い

ともいえます。

  

かたや建築は、建築家が、出だしの一行を記しても、それ以降

さまざまに異なる意思の介入があります。

 

しかし、その不自由さを意識しながら、人間と空間の望ましい

あり方を追求してやまない建築から、創造としての書く行為

が学ぶことは尽きないようです。

  

※テキスト

 槇文彦『漂うモダニズム』左右社(2013)
 

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     槇文彦 設計『風の丘葬斎場』

初夏の光にさようなら

6月に入り、薄曇りの日が続いていましたが、

今日は、久しぶりに晴れ間がのぞきました。

 

留学性の皆さんも、リラックスモードで、週末を

過ごしていますか?

オンライン授業は、しばらく続くようですが、

日常は、緩やかに戻りつつあるのではないでしょうか。

 

初夏も、じき終わります。

 

日本の季節のうちで、最も美しいのは、初夏だと思い

ます!

 →独断と偏見?
 

寒すぎず、暑すぎずという気候は、好ましいし、新緑と

陽ざしのきらめきに浸る心地よさは、この時期ならでは

なので。

  

けれども、初夏は、駆け足のように過ぎ去る短い季節。

今年は、例年とまったく異なる事態だったため、

その終わりにあり、感慨も深いです。

  

やがてやってくる梅雨が明ければ、私たちは、もう今年

の後半に、足を踏み入れています。

 

1日、1日を大切に。実りある時間を送りましょう!

 

女性医師の嘆き

「リケジョ」とは、俗語ではありながら、「理系女子」を

肯定的に 捉える形容詞です。

 

三者から、揶揄的(やゆてき)にそう呼ばれるのでなく、

就職指南の書籍やサイトで、積極的に使用されていること

からも、この語は、定着した感があります。

 

しかし、現在では、顧みられる機会がないものの、ここに

至るまでには長い道のりがありました。

 

昨日、写真をアップした近代日本における女性医師の先駆者

(せんくしゃ)・荻野吟子(おぎのぎんこ)は、140年前に

嘆いています。 

 

男子学生に混じり、優秀な成績で、医学を修めたものの、

「女性である」という理由で、国家試験を受けさせてもらえ

ない。

  

彼女は、東京府に、受験資格を要請しながら、二度却下され、

さらに出身地の埼玉県に、同様な要請をおこない、却下され

ます。

 

荻野は、そのころの心情を、後年(こうねん)に回想します。

 

「親戚朋友嘲罵は一度び予※に向かって湧ぬ。進退是れ谷まり

百術総て尽きぬ」。

 

「肉落ち骨枯れて心神いよいよ激昂す」。

 

以下は、現代語訳です。

 

「私に向けられた親戚、親友による嘲笑(ちょうしょう)、

罵倒(ばとう)は、いったん沸き上がった。前後の動きを封じ

られ、すべての策は尽きてしまった」。

 

「私の体は、消耗し果(は)てたが、精神は、一層、激しく

燃え上がる」。

 

このような態度を、四字熟語で

「悲憤慷慨(ひふんこうがい)」と、形容します。 

古風に響くかもしれませんが、現在にも残っている表現です。

 

近代における「リケジョ」の先駆者は、才能や努力によっても

克服しえない性別の壁に、行く手を阻(はば)まれます。

 

しかし、予(=私)という自称からは、嘆きとともに、

ジェンダーを超え、使命に燃える人間の自負が、伝わってくる

のです。

 
 

※荻野吟子は、幕末(江戸時代)の生まれです。

 近世には、女性の自称に「わらわ」がありました。

 漢字では「妾」とも書くので、今の感覚では違和感が

 ありますが…

 自分をへりくだって称する「わらわ」に対し、

「予(よ)」、 または「余(よ)」は、近代の知識人

(主として男性)が、もちいたものです。

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文体の手触(てざわ)り

書く人間の数だけ文体がある、といえば、語弊

(ごへい)があるかもしれませんが。

 

文章を読むときには、その書き手の背後にある

ものが、浮かび上がります。

 

昨日からお話ししている「新書」に、例をとっても、

そのようすは、明らかです。

 

『日本語空間』で、現在、レッスンに使用している

2冊の新書は、大枠では理系ですが、分野は、「生物学」

と「情報工学」に分かれます。

 

筆者は、どちらも現役の大学教授。

 

出版社を問わず、新書の性格には、手軽に読める教養書、

ソフトな啓蒙書(けいもうしょ)といった側面があります。

 

それは、この2冊にも共通しています。

 

ただし、前者のほうが、いわば文学的な修辞がちりばめ

られているのに対し、後者のほうは、ドライなタッチの文章。

→いずれにしても、手に取る日本人は、特に文学的だとか、

ドライだとかは意識せず、自然に読み進めるでしょう。

 

各々の文体は、専門分野と個人の資質が交わるところに、

成り立っているともいえます。

 

その相違は、実に興味深いです。

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    日本経済新聞(2020.5.25)の記事より

理系の学習者

昨今は、思想界において、理系と文系の距離が

縮まっているように、見受けられます。

 

『日本語空間』では、昨年まで、比率的には、

文系の学習者からの依頼が多かったです。

 

しかし、最近流れが変わり、半数が、理系専攻

の学習者となりました。 

ただし、レッスン内容はさまざまです。

 

そのうち二人の方が、専門分野に関する「新書」

(各出版社から出ている文庫本)を使い、レッスン

をおこなっています。

  

一人は、電子工学専攻の留学生で、大学編入

目指し、小論文の書き方を学んでいます。

 

もう一人は、学生ではなく、大学の医学部の教授

(女性)で、1年の サバティカルイヤーを送って

いる最中です。

 

仕事中、同僚とは、基本的に英語で会話している

そうですが、せっかくの機会だからと、大変熱心に、

日本語を学んでいます。

  

レッスンスタート時は、カンファレンスで配付される

レジュメの日本語版 を、読解したいという希望でした。

しかし、日本語を学習するのが初めてであったため、

文字では理解できても、 現場で、聞き取りをするのが

難しく、方針を変えることになりました。

  

まずは、初級のテキストを終え、現在は、ご本人の

希望で、新書を使い、 音読の練習と読解をおこなって

います。

  

声に出して読みながら、日本語のリズムを体得したい、

そして、書きことば 独特の言い回しは、理解しづらい

が、とても興味がある、とのことです。

 

初級の直後に、JLPTのN1レベルより難易度の高い、

新書へとジャンプするのは、普通ではありえません。

しかし、少しでも早く日本語を上達させたいという

希望を満たすには、知的好奇心を原動力にする、この

ようなスタイルが合っているのでしょう。

 

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近代日本で初めて国家資格を取得した女性の

 医師・荻野吟子 おぎのぎんこ(1851-1913)